まずは自分の分身を登録します。
多少甘めに見積もっても、かなり酷い能力になりました。
ちょっと知略に自信があるのが透けて見える感じも恥ずかしいですね。
これだと戦国時代では生きていけなさそうなので大幅にパワーアップさせてみます。
これなら戦国武将とも渡り合えそうです。
では戦国の世に解き放ってオートで眺めていきましょう。
1560年4月
島津家に17歳の武将が加わりました。
まずは内城に配属されたようです。
1560年9月
内城の奉行を任されました。
知略と政治が高いので良い仕事ができそうですね。
1561年2月
肝付家との戦が始まりました。
島津義弘様の副将として出撃します。
初めての戦は負けてしまいました。
1561年11月
義弘隊の副将として人吉城攻略作戦に参加しました。
1562年11月
島津家は相良家の人吉城と肝付家の国見城を奪い、領土を広げました。
1563年3月
肝付家への総攻撃に参戦しました。
義弘様には気に入ってもらえてるようです。
1564年1月
島津家が肝付家を滅ぼしました。
1564年6月
四男の家久様が城主の人吉城へ移動になりました。
ここでも奉行を任せてもらってます。
知略と政治でお役に立てそうです。
1564年8月
家久様にも副将として戦場へ連れて行ってもらえました。
1564年11月
島津家が相良家を滅ぼしました。
1565年11月
ちょうど1年後、宮崎の伊藤家も滅ぼしました。
1567年2月
家久隊の副将として大軍で岩尾城へ攻め入りましたが攻略には失敗しました。
1567年5月
佐土原城へ移動になりました。
左遷された感が強いです。
忠誠も下がりました。
1567年6月
佐土原城でも奉行を任されたみたいです。
1568年2月
戦は起きていますが、佐土原城からは出陣が無く、平和な日々を過ごします。
1568年6月
山田有信隊の副将として1800の兵で出陣しました。
1568年7月
2つの城を巡って大戦が起きていました。
なんとか戦果を挙げたいところです。
1569年1月
半年くらい戦が続いています。
御船城を攻略し、高森城も時間の問題です。
隈本城を取れればかなり大きそうです。
1569年10月
1年以上の戦の結果、先に隈本城を落とすことが出来たみたいです。
佐土原城へ戻ると城主が変わっていました。
忠誠は低いままですね。
早く義弘様か家久様のところに戻りたいです。
1570年3月
また城主が変わって今度は島津忠将様の副将として出陣することになりました。
北へ勢力を広げていきます。
1570年7月
次は隈本城へ移動になりました。
ここでも城主は山田有信です。
同い年なので城主を任せてもらえないのはちょっと悔しいですね。
1571年2月
山田有信隊が出陣しましたが、連れて行ってもらえませんでした。
仲が良くないんでしょうか。
1573年5月
九州は島津家と大友家の覇権争いになりました。
1574年9月
九州では島津家と大友家の戦が続いています。
近畿では織田家が一気に勢力を伸ばしました。
1575年2月
城主の山田有信はしょっちゅう出陣するのですが、相変わらず戦には連れて行ってもらえません。
1575年7月
仲が悪いことがバレたのか、肝付城へ移動になりました。
1575年11月
肝付城の奉行を任されました。
これ以降、内政ばかりの日々が続きます。
1577年5月
武田家が北条家によって滅ぼされました。
時代が動き始めましたね。
織田家も毛利、上杉、徳川、北条には手を焼いているようです。
1577年11月
島津家は第6位まで石高を伸ばしています。
1578年1月
約15年ぶりに義弘様のいる内城へ戻ってきました。
いやぁ、かなり嬉しいですね。
自分ももう35歳になっていました。
1578年10月
島津義弘隊9500の副将として大友との戦へ向かいます。
ぜひお役に立ちたいところです。
1579年11月
獅子ヶ城攻略には成功しましたが、東から織田家がすごい勢いで勢力を伸ばし始めました。
1580年2月
織田家の脅威が影響してか、大友との膠着状態が続きました。
1581年7月
織田家が長宗我部家を滅ぼします。
1581年8月
毛利の滅亡も時間の問題になってきました。
1581年11月
久しぶりに大友との大戦が始まりました。
しかし、決着はつかず、形勢は動きませんでした。
1582年6月
織田家は東へも勢力を伸ばします。
1583年10月
何度か大友との大戦が起きていますが、形勢は動きません。
1584年2月
ここで西の織田が一斉に動きます。
1584年5月
毛利家はあと1つ城を残すのみとなりました。
1584年6月
なんと織田家ではなく、大友家が毛利家を滅ぼしてしまいました。
1584年7月
再び隈本城へ移動になりました。
城主はまた山田有信です。
1585年3月
織田家が大友家を飛び越えて島津へ攻め込んできました。
大友と織田は停戦を結んでいる模様です。
1585年6月
第一陣の防衛には成功しましたが、さらに兵が送り込まれています。
1585年7月
関東では北条が絶対絶命でした。
あっさりと北条も滅亡です。
1585年12月
島津家は抵抗を続けていましたが、とうとう織田家に九州への侵入を許してしまいました。
1586年10月
織田家は九州と東北の平定を残すのみとなりました。
徳川家は同盟を結んで生き残っています。
1587年1月
織田の進撃が止まりません。
自分は国見城へ移動し、城主を任されました。
1587年2月
停戦の切れた大友があっさりと織田に飲み込まれました。
一瞬で滅亡です。
1587年3月
残るは島津家と南部家のみです。
4500の兵を率いて自分も出陣しました。
1587年5月
岡城の防衛にあたります。
1587年6月
織田家の武力は凄まじく、一瞬で42まで兵が現象し、敗走しました。
1587年11月
佐土原城へ移動しました。
1588年2月
佐土原城の兵を率いて隈本城の防衛にあたりました。
なんと相手は織田信長隊です。
1588年3月
信長の強さをまざまざと見せつけられて敗走しました。
1588年5月
先に南部家が滅亡しました。
1588年7月
捕虜となってしまいました。
義弘様と山田有信も捕虜になっています。
1588年12月
島津家の城もあとわずかです。
自分は織田家へ登用されました。
織田家への不満はすごいみたいです。
1589年4月
とうとう島津も追い詰められました。
そして滅亡です。
織田家が天下統一となりました。
1589年10月
その後、自分は肝付城の城主となり、天寿を全うしましたとさ。
おしまい。